kamtrixのブログ

21世紀の日本で「男性」が抱える問題に関心を抱いています。ジェンダー規範、教育、職業、コミュニケーション、恋愛、セックス、自殺、健康・寿命、幸福感、科学史など様々な観点から、今を生きる男性たちの「生き辛さ」を解決する方法と、男性にとっての「幸福追求」のあり方を考えてゆきたいと思います。

「童貞問題」について

 少し前に、「童貞いじり」の是非が話題になった。なぜ「童貞」はいじられる対象となったり、コンプレックスの理由となったりするのだろうか。それは、今日の日本社会に生きる異性愛者男性にとって、「恋愛と紐付けされたセックス」が特別な地位を与えられているからに他ならない。

 たとえセックスを経験しても、風俗店において経験したに過ぎない場合は「素人童貞」と呼ばれ、「童貞」と変わらぬ扱いをうけることからみても、単なるセックス経験の有無が問題となっている訳ではないことがわかる。よく言われるのは、恋愛に伴うセックスが異性からの最大限の承認の証明になるという説である。異性から愛されるという最大限の承認経験の有無が、その人の「価値」と如実に結びついているのだ。

 「童貞」であること、すなわち「異性からの最大限の承認」を得られていないことが男性にとって恥となったのは、1960年代頃からであるという。日本が本格的な工業化社会に突入した時代と重なることが興味深い。工業化は農村の地縁的な社会の衰退と、都市への人口流入を強くもたらした。これが、人々の結婚と働き方を大きく変容させた。

 60年代は、恋愛結婚がお見合い結婚の数を逆転した時代であり、同時に、これまでは一部の上流・上層中流階級だけのものだった「男性正社員と専業主婦の妻」という家族モデルが、広く国民の間に広がり始めた時代となった。男性たちには、自力で妻となる女性を見つけて結婚し、企業戦士として妻子を養うことが能力として求められるようになっていった。そして、このモデルに乗ることができた男性たちは、自らの能力や努力によってそれを達成したのだと自負するようになっていった。逆に、このモデルに乗れなかった男性は、男としての能力や覚悟を持たない男として、鼻つまみ者となっていった

 この時代に形成された男性の人生モデルは、今も男性たちに強く影響している。「童貞」であることの原因が、しばしばコミュ力や人間性の未熟さ、収入の低さといった、本人の能力・甲斐性に帰せられるのは、その名残といえよう。農業社会では、本人の個人的能力は、性的経験へのアクセスにおいてさほど重要な要素とは見なされていなかった。

 さらに追い打ちをかけたのは、80年代以降のバイオテクノロジーの進化により、DNAや遺伝子に基づく「生物としての優劣」という優生思想的な観点が復活したことである。異性からセックスの相手として選ばれる個体は生物学的に「優れており」、そうでない個体は「劣っている」という思い込みが社会の中に広がっていった。特に近年の生物学的な議論を援用した男女論では、女が「選ぶ性」で、男は「選ばれる性」であることが強調される傾向にあり、女から選ばれない男があたかも生物として無価値であるかのように主張する(典型的な自然主義的誤謬を犯した)言説も少なくない。

 この結果、女から性行為の相手として「承認」されたことがない男、すなわち「童貞」が、無能で生物学的に価値のない存在であるかのような通念が広がり、それが「童貞」への蔑視やいじりに、あるいは「童貞」コンプレックスを生起してしまう結果となっている。誠に残念ながら、21世紀の日本に生きる思春期以後の異性愛者の童貞男性の多くにとって、この種の考えがあまりにも社会全体に浸透してしまっているがために、童貞コンプレックスから完全に自由になることは難しい状況にある。このコンプレックスは、女性から「承認」されない限り、ずっと心の奥底に残り続ける。そして、いちどでも女性から「承認」されれば、このコンプレックス自体は消滅するが、逆に今度は、「童貞卒業者」として「童貞」にマウンティングする、「童貞いじり」へと繋がることも少なくない。

 こういう「童貞への呪い」から解放されるために重要なことは、「異性からの承認経験の有無」というものそれ自体が、その人の価値や能力と何も関係がないと納得できることだろうと思う。恋愛経験の多寡が、その人の能力や人格、あるいは生物としての優劣とは何も関係が無いことを理解する必要がある。異性との性交経験がある人は、たまたま偶然的にそういう機会・環境と、それを受け入れる意欲があったに過ぎないのだ。

 実は、異性経験の有無や多寡の決定が、偶然性と若干の意欲次第であるという実態は、農業社会の時代も含めて一貫して変わっていないのだ。単に60年代以降の日本社会では、異性経験の有無や多寡が本人の資質・能力に依るという言説が幅をきかせるようになり、その結果、たまたま性行為を経験したことのない男性が、感じる必要のないコンプレックスを感じさせられるようになっていったに過ぎない。「異性からの承認」という発想それ自体から、自由になる必要がある。