kamtrixのブログ

21世紀の日本で「男性」が抱える問題に関心を抱いています。ジェンダー規範、教育、職業、コミュニケーション、恋愛、セックス、自殺、健康・寿命、幸福感、科学史など様々な観点から、今を生きる男性たちの「生き辛さ」を解決する方法と、男性にとっての「幸福追求」のあり方を考えてゆきたいと思います。

男性の自殺率と稼働能力

 一般に、世界中の殆どの国で男性の自殺率は女性のそれよりも高い。そして、それは日本にもあてはまる。その理由として、生物学的な脆弱性や、社会的・経済的・文化的な重圧、あるいは自殺手段として致死性の高い方法を選ぶ傾向があることなどが挙げられている。自殺の動機別に見ると、男女とも健康問題がその主要な動機となっている一方、経済問題や勤務問題で自殺する男性は女性よりもはるかに多い。ここでいう経済問題や勤務問題とは、失業や負債、仕事上の失敗などが想定されうるし、或いはその背景として職場での長時間労働やハラスメント、不安定な雇用状態や低賃金などが存在すると考えられる。ここで問題なのは、なぜこの項目を動機とする自殺者において、これほど男女差があるのか、という点だろう。ここでは、90年代以降の日本社会について考えてみたい。

 まず負債についていえば、企業経営者の多くが男性に偏っていることが考えられる。また、住宅ローンのような負債も、その借り主となっているのは「稼ぎ手」として「一家の大黒柱」と見なされた男性である場合が多いだろう。同様に、誰かの借金の「保証人」となるのも、男性が多いだろう。このような日本での稼働能力の男性への偏り(これらは、本格的な工業化社会の到来以後に生じたものと考えられる)は、負債のリスクを男性に偏らせる結果に繋がったと考えられる。また、男性の稼働能力が重視される社会にあって男性が失業したり、低収入であることは、本人のみならず扶養家族の生活困難をもたらす。そのため、それは男性にとって家族の喪失や人間関係上の孤独などにもつながり、そうでなくとも、あるいは本人の内心における自責の念や、周囲からの白眼視を惹起していると考えられる。そしてフルタイムで労働している割合も、男性の方が高い。そのことは、男性の方が、仕事上での取り返しのつかないミスや、長時間労働・ハラスメントといった劣悪な労働環境に晒される可能性が高いことを意味する。このように、稼働能力と稼働期待の男性への偏りが、男性の高い自殺率を招いていると考えられる。

 興味深いのは、1998年以降、男性の自殺者数は急増し、2010年代半ばに低下するまで、十数年間高止まりしていたという点である。この期間は、ちょうど日本の工業化社会が終焉し、脱工業化社会へと移行してゆく過渡期にあたる。「失われた二十年」などと言われ、90年代の企業の相次ぐ倒産・リストラの時代を経て、00年代には不安定で低収入な非正規雇用が拡大した時期であった。日本型雇用の「悪いとこ取り」をしたブラック企業が横行しはじめるのもこの時期である。

 すなわち、稼働能力に基づく「男の甲斐性」が、社会経済的には通用しなくなった時期であるといってよい。だが人々の心理的には、なおもその意識が根強く残っていた。その過酷な狭間に、多くの男性たちが飲み込まれてしまったのではないか。

 90年代末に男女雇用機会均等法が改正され、男女共同参画社会基本法も制定されたが、女性の社会進出を促す動きはまだまだ始まったばかり、という時期だった。四年制大卒の女性が企業の総合職に応募することが「普通」になっていったのは00年代半ば頃であるという。こうした動きはおそらく90年代前半頃に日本の工業化社会が終焉を迎えたことと関係し、これと対応するように、60年代以来の「男の甲斐性」を持てない男性も90年代以降増加していたのだと考えられる。

 だが、男性がそうした「甲斐性」を持たないことが社会的に許容されるようになるまで、10年程度のタイムラグがあった。「草食系男子」という言葉がブームになったのは00年代後半のことだ。それ以前は、基本的に(若い)男は女にがっつくもの、という一般的前提が当たり前だった。ようやく、そうではない男の生き方が認められるようになった。「イクメン」「専業主夫」あるいは「ソロ男」といった、「妻子を養う稼ぎ手」とは異なる男性の生き方も広く認知されるようになた。露骨に男性に「たかる」女性は白眼視され、若い女性の安易な「専業主婦志望」は戒められるようになった。そして2010年代に入るころには、未だ改善の道半ばとはいえ、ハラスメントや長時間労働にも社会から厳しい目が徐々に向けられるようになった。10年代半ばに男性の自殺率が98年以前の水準まで減少した背景には、もちろん中高年男性を対象とした政府の自殺対策の効果も大きかっただろうが、こういった社会の変化を反映している部分もあると思う。

 だが、それでもなお男女の自殺率には大きな隔たりがある。それは、いまなお男女の賃金や雇用形態の格差が大きく、企業の役員や管理職の男女比に差があることと無関係ではないだろう。既に男女の高等教育進学率は大差ない状況になっているのに、このような差が生じる理由に、いわゆる女性労働率のM字カーブがある。

 これは、女性が学校を卒業して就労したのち、結婚や出産を機に退職し、その後低収入のパートタイマーとして職場復帰するというライフスタイルが女性の主流を占めていることを意味する。昨今、日本ではM字カーブが解消しつつあるというニュースが報じられ、おそらくそれ自体は事実なのだが、これはあくまでパートタイムを含めた労働参加率において改善しつつあるというレベルにとどまっており、女性の非正規労働率に鑑みるに、結婚後に男性を主要な稼ぎ手とするモデルはまだまだ残っている。すなわち、平均的な結婚年齢である30代以降は、いまなお男性が主要な稼ぎ手として想定され、求められているのだ。

 10年代以降、政府は女性が結婚・出産後も正規雇用での就業を継続し、管理職への登用数も増やすよう、労働分野での積極的なジェンダー平等政策を打ち出している。それは工業化社会が終焉した時代の必然であるし、この流れが続ければ、いずれ男女の稼働能力や稼働期待の非対称性が概ね解消される日も来るかもしれない。だが、いまはまだそこに至るまでの長い長い過渡期の途上である。実際の社会経済的構造と、人々の意識の間のギャップは、緩和されつつあるとはいえ未だ根強い。重要なのは、過去のモデルに縛られることではなく、これからを見据えて人生に臨むことだろう。

「童貞問題」について

 少し前に、「童貞いじり」の是非が話題になった。なぜ「童貞」はいじられる対象となったり、コンプレックスの理由となったりするのだろうか。それは、今日の日本社会に生きる異性愛者男性にとって、「恋愛と紐付けされたセックス」が特別な地位を与えられているからに他ならない。

 たとえセックスを経験しても、風俗店において経験したに過ぎない場合は「素人童貞」と呼ばれ、「童貞」と変わらぬ扱いをうけることからみても、単なるセックス経験の有無が問題となっている訳ではないことがわかる。よく言われるのは、恋愛に伴うセックスが異性からの最大限の承認の証明になるという説である。異性から愛されるという最大限の承認経験の有無が、その人の「価値」と如実に結びついているのだ。

 「童貞」であること、すなわち「異性からの最大限の承認」を得られていないことが男性にとって恥となったのは、1960年代頃からであるという。日本が本格的な工業化社会に突入した時代と重なることが興味深い。工業化は農村の地縁的な社会の衰退と、都市への人口流入を強くもたらした。これが、人々の結婚と働き方を大きく変容させた。

 60年代は、恋愛結婚がお見合い結婚の数を逆転した時代であり、同時に、これまでは一部の上流・上層中流階級だけのものだった「男性正社員と専業主婦の妻」という家族モデルが、広く国民の間に広がり始めた時代となった。男性たちには、自力で妻となる女性を見つけて結婚し、企業戦士として妻子を養うことが能力として求められるようになっていった。そして、このモデルに乗ることができた男性たちは、自らの能力や努力によってそれを達成したのだと自負するようになっていった。逆に、このモデルに乗れなかった男性は、男としての能力や覚悟を持たない男として、鼻つまみ者となっていった

 この時代に形成された男性の人生モデルは、今も男性たちに強く影響している。「童貞」であることの原因が、しばしばコミュ力や人間性の未熟さ、収入の低さといった、本人の能力・甲斐性に帰せられるのは、その名残といえよう。農業社会では、本人の個人的能力は、性的経験へのアクセスにおいてさほど重要な要素とは見なされていなかった。

 さらに追い打ちをかけたのは、80年代以降のバイオテクノロジーの進化により、DNAや遺伝子に基づく「生物としての優劣」という優生思想的な観点が復活したことである。異性からセックスの相手として選ばれる個体は生物学的に「優れており」、そうでない個体は「劣っている」という思い込みが社会の中に広がっていった。特に近年の生物学的な議論を援用した男女論では、女が「選ぶ性」で、男は「選ばれる性」であることが強調される傾向にあり、女から選ばれない男があたかも生物として無価値であるかのように主張する(典型的な自然主義的誤謬を犯した)言説も少なくない。

 この結果、女から性行為の相手として「承認」されたことがない男、すなわち「童貞」が、無能で生物学的に価値のない存在であるかのような通念が広がり、それが「童貞」への蔑視やいじりに、あるいは「童貞」コンプレックスを生起してしまう結果となっている。誠に残念ながら、21世紀の日本に生きる思春期以後の異性愛者の童貞男性の多くにとって、この種の考えがあまりにも社会全体に浸透してしまっているがために、童貞コンプレックスから完全に自由になることは難しい状況にある。このコンプレックスは、女性から「承認」されない限り、ずっと心の奥底に残り続ける。そして、いちどでも女性から「承認」されれば、このコンプレックス自体は消滅するが、逆に今度は、「童貞卒業者」として「童貞」にマウンティングする、「童貞いじり」へと繋がることも少なくない。

 こういう「童貞への呪い」から解放されるために重要なことは、「異性からの承認経験の有無」というものそれ自体が、その人の価値や能力と何も関係がないと納得できることだろうと思う。恋愛経験の多寡が、その人の能力や人格、あるいは生物としての優劣とは何も関係が無いことを理解する必要がある。異性との性交経験がある人は、たまたま偶然的にそういう機会・環境と、それを受け入れる意欲があったに過ぎないのだ。

 実は、異性経験の有無や多寡の決定が、偶然性と若干の意欲次第であるという実態は、農業社会の時代も含めて一貫して変わっていないのだ。単に60年代以降の日本社会では、異性経験の有無や多寡が本人の資質・能力に依るという言説が幅をきかせるようになり、その結果、たまたま性行為を経験したことのない男性が、感じる必要のないコンプレックスを感じさせられるようになっていったに過ぎない。「異性からの承認」という発想それ自体から、自由になる必要がある。

ブログ開設にあたって

 本ブログは、2010年代の日本を20代の男性として生きる私が、男性として自らの性に関わる社会的・文化的な事柄について日ごろ考えていることを、自分のための備忘録としてまとめておくために開設したものである。

 性のありかたを巡る議論は、今のインターネットでは一番ホットなテーマだろうと思う。それは、どんな人にとっても、自らの(生得的な肉体的形状という意味での)性と紐付けられた社会的・文化的諸条件に対し違和感を抱く部分が少なからずあるからだろう。とくに近年顕在化しているのは、「男性」をめぐる問題であると考える。

 フェミニズム系の論者からは、日本社会における男性優位の権力勾配や、男性の身体的な加害者性を強調する意見が提示され、いまなおセクハラや女性差別が横行し、リーダー層を殆ど男性が独占する男社会が強く批判されている。このように、男性は「特権」を享受する「強者」として糾弾される一方で、2ch系の掲示板には、生きづらさを感じる男性たちによる「男性差別」や「女はイージーモード」といった言説があふれている。実際、自殺者数は男性の方が女性より圧倒的に多く、「幸福度」の統計においても男性は女性より低いという現実がある。

 そうした状況の中で、「弱者男性」といった概念も登場した。フェミニズムの指摘するような「男性特権」を享受していないにも関わらず、より優先的に「弱者」として見なされている女性へのアファーマティブアクションによって「割を食っている」とされる男性のことを指す。その意味する具体像は論者によって多様だが、経済的に困窮していたり、社会的人間関係において孤立状態にある男性を指すことが多いようだ。

 こうした「弱者男性」論については、その「弱者性」を疑問視する立場からの批判もある。だが、少なくない男性が「生き辛さ」を感じていることは事実といえよう。男性を常に特権的強者と見なすフェミニズム系の論者は、そのような生きづらさは「男性特権」の上にあぐらをかくがゆえの自己責任として切り捨てるだろう。だが、私は自らも男性として生きる当事者として、そのような立場に立つわけにはゆかない。

 この世に生まれ出でる際にXY染色体をもつ身体に生まれてきたことは、偶然の結果に他ならない。その偶然的運命が、「特権」を意味するのか、それとも「ハードモード」を意味するのかは論者によって見方が異なるが、いずれにしても、たまたま生まれてきたときに「男性」であった人が、その結果によって不幸や劣等感を感じたり、あるいは生きづらさを感じて命を失うようなことは、同じ男性という運命に生きる当事者として到底看過することはできないのである。

 その観点から、私は日ごろから男性が直面しがちな「生きづらさ」と、それを乗り越えて自らの生を肯定できるような幸福追求のあり方について考えている。冒頭で述べたように、これは自分自身のための備忘録なのだが、それをインターネット上で公開するのは、もし万が一にも、私の駄文が誰かにとっての役に立つことがあればこの上ない幸甚と考えてのことである。