kamtrixのブログ

21世紀の日本で「男性」が抱える問題に関心を抱いています。ジェンダー規範、教育、職業、コミュニケーション、恋愛、セックス、自殺、健康・寿命、幸福感、科学史など様々な観点から、今を生きる男性たちの「生き辛さ」を解決する方法と、男性にとっての「幸福追求」のあり方を考えてゆきたいと思います。

ブログ開設にあたって

 本ブログは、2010年代の日本を20代の男性として生きる私が、男性として自らの性に関わる社会的・文化的な事柄について日ごろ考えていることを、自分のための備忘録としてまとめておくために開設したものである。

 性のありかたを巡る議論は、今のインターネットでは一番ホットなテーマだろうと思う。それは、どんな人にとっても、自らの(生得的な肉体的形状という意味での)性と紐付けられた社会的・文化的諸条件に対し違和感を抱く部分が少なからずあるからだろう。とくに近年顕在化しているのは、「男性」をめぐる問題であると考える。

 フェミニズム系の論者からは、日本社会における男性優位の権力勾配や、男性の身体的な加害者性を強調する意見が提示され、いまなおセクハラや女性差別が横行し、リーダー層を殆ど男性が独占する男社会が強く批判されている。このように、男性は「特権」を享受する「強者」として糾弾される一方で、2ch系の掲示板には、生きづらさを感じる男性たちによる「男性差別」や「女はイージーモード」といった言説があふれている。実際、自殺者数は男性の方が女性より圧倒的に多く、「幸福度」の統計においても男性は女性より低いという現実がある。

 そうした状況の中で、「弱者男性」といった概念も登場した。フェミニズムの指摘するような「男性特権」を享受していないにも関わらず、より優先的に「弱者」として見なされている女性へのアファーマティブアクションによって「割を食っている」とされる男性のことを指す。その意味する具体像は論者によって多様だが、経済的に困窮していたり、社会的人間関係において孤立状態にある男性を指すことが多いようだ。

 こうした「弱者男性」論については、その「弱者性」を疑問視する立場からの批判もある。だが、少なくない男性が「生き辛さ」を感じていることは事実といえよう。男性を常に特権的強者と見なすフェミニズム系の論者は、そのような生きづらさは「男性特権」の上にあぐらをかくがゆえの自己責任として切り捨てるだろう。だが、私は自らも男性として生きる当事者として、そのような立場に立つわけにはゆかない。

 この世に生まれ出でる際にXY染色体をもつ身体に生まれてきたことは、偶然の結果に他ならない。その偶然的運命が、「特権」を意味するのか、それとも「ハードモード」を意味するのかは論者によって見方が異なるが、いずれにしても、たまたま生まれてきたときに「男性」であった人が、その結果によって不幸や劣等感を感じたり、あるいは生きづらさを感じて命を失うようなことは、同じ男性という運命に生きる当事者として到底看過することはできないのである。

 その観点から、私は日ごろから男性が直面しがちな「生きづらさ」と、それを乗り越えて自らの生を肯定できるような幸福追求のあり方について考えている。冒頭で述べたように、これは自分自身のための備忘録なのだが、それをインターネット上で公開するのは、もし万が一にも、私の駄文が誰かにとっての役に立つことがあればこの上ない幸甚と考えてのことである。